今月のTOP写真集
(2007年)
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2007年12月のTOP
鉄道写真に限りませんが、よく定点撮影や狭いフィールドの四季の移ろいを組み写真に仕上ているサイトをみます。
私も一年かけて、やっと一組作ってみました。(クリックすると拡大します)
この1年をふり返ってみると、やはりデジタル一眼レフカメラを購入したのが、趣味の幅を広げてくれたと思います。
いままでは、「鉄道写真は望遠に限る。」「被写体は車両や施設をリアルに写すのに限る。」と、思っていたのですが、ワイドレンズも使ってみると、面白い絵が出来ますし、人物や車や沿線の建物が写り込むのも、時が経てば一種のタイムカプセルになって、きっと懐かしく思い出す日が来ることもわかりました。

写真を趣味にする人なら当たり前のことが、この年になってやっとわかってきたようです(^^ゞ

2007年11月のTOP
昭和63年の秋、新生JR九州の目玉として登場した、ハイパーサルーン783系電車とSLあそボーイ58654号機を見に熊本へ飛びました。
水前寺公園の近くのホテルに泊まり朝早く駅に行くと、お目当ての専用塗装のDE10-1756と電源車ヨ28001に引かれたスーパー有明がやってきました。
国鉄時代でも非電化区間にSLやDL牽引で電車を直通させる例はありましたが、「新造車にあわせて機関車を用意して観光客を誘致し、しかも直通区間は普通列車扱いで市内線の増発も兼ねる。」というJR九州の施策は、「さすが民間会社」と、話題になったものです。

今は、この区間も電化され博多方面から直接電車が乗り入れてくるようになりました。数年後の九州新幹線鹿児島ルートの全線開通後はこの付近の鉄道網もまた大きく変わるのでしょうか?

(昭和63年11月11日)

2007年10月のTOP
1989年10月5日、京阪鴨東線(三条−出町柳)が開業し、洛北と京阪沿線が直結しました。昭和初期以来、何度も計画され一時は工事に着手したこともありましたが開通には至らず、地元では幻の電車とまで陰口を叩かれ続けていました。それがバブルの恩恵(?)を受けて、とうとう平成に代替わりした年にやっとつながったのです。
市電の廃止で鉄道ネットワークから切り離され、バスや地下鉄にお客を奪われ、「いよいよ田舎電車もこれまでか?」と思わせるほどの乗客減少に悩んでいた電車が、急に息を吹き返し、平日は通勤・通学に、休日は観光鉄道にと、復活するきっかけになりました。以後、電車の新造、施設の改良と発展していくのはご存知の通りです。
開業初日は平日で駆けつけられませんでしたが、次の週末を利用して東京から帰省しました。写真をみるとみな長袖に上着を羽織っています。当日の新聞を読んでみると「鴨東線開業・叡電も週末で大賑わい」という記事と並んで「寒気団が日本列島をおおい各地でこの秋最低の気温」という記事が出ていました。納得です(^^♪
写真は、昼過ぎの出町柳駅です。2番ホームにはデナ21の2連が止まっています。行灯式の行き先表示機もなつかしいです。拡大写真をみると良くわかりますが、まだ岩倉以遠が単線の時代で「岩倉」「宝ヶ池接続」など今ではみられない行き先が出ています。地下の京阪ホームでも3000系の特急が巾を利かせていました。
(1989/10/09)

2007年9月のTOP
9月は「京都市電」を回想する季節です。
廃止の1日前のこの日は、小雨の中、元田中で叡電と市電の平面交差を狙っていました。うまく市電と叡電が出会ったのであわててシャッターを切ったのでしょうが、結果は市電にタクシーは被るは、叡電に電柱が立ちはだかるは、画面を街灯が横切るはで散々な写真になりました。
画像ソフトでの修正も考えましたが、これも記録と割り切って、一部の個人情報の保護に止めています。
叡電のホームへ向かう小学生の列は最後の貸切の市電から叡電に向かう所です。この子供たちもお父さんお母さんになっているでしょうが、記憶の中に市電の遠足が残ってると嬉しいのですが。
(S53/09/29)


2007年8月のTOP

盆休みの越美北線「北濃駅」の情景です。今は第3セクターになっていますが、この頃は国鉄線でした。夏休みの帰省を兼ねた小旅行の途中で、福井から越美北線・国鉄バス大野線と乗り継いで美濃白鳥へ、南線乗りつぶしのため、ここ北濃までやってきました。北線の越前大野から南線の郡上八幡くらいまで、乗客は乗りつぶしの鉄道ファンばかりでした。
バス線の「大穴馬−白馬洞」という停留所名が競馬ファンに受けてご利益キップとして評判になっていた時でもあります。、今は越美国境を越えるバスは廃止になり、南線も存続が危ぶまれています。北線も水害で長期休止区間がありましたがやっと復旧したのは喜ばしいニュースです。
(S61/08/14)



2007年7月のTOP

夏休みに入ったある日の叡電修学院車庫のスナップです。この日は鞍馬線は多客で増発され、客扱いのため車掌さんまで乗務する大賑わいです。2連車は7編成中、6編成まで出払っています。変わって叡山本線は3列車でまかなえるため、デオ700は8両中5両がお休みということになります。
その出番のない電車がたまたま車庫の一隅に集まっているシーンを写すことが出来ました。単車もこれだけ頭を寄せて集まると存在感がありますね。
(2006/07/22)

2007年6月のTOP

'96年の鉄道フォーラム(Ftrain)の全国オフは青森フォーラム(Faomori)と共催で、青森県の南部縦貫鉄道を舞台に開催されました。6月というのに、みちのくの山間の町は肌寒く、写真に写る運転士さんのように、みんな長袖に上着まで羽織って撮影していました。
行程は、前日の午後に東京で記念パーティーを行い、夜行列車で早朝の野辺地着。一日レールバスを堪能して、そしてその日のうちに十和田から盛岡・東京経由で京都まで戻るという強行軍でした。帰ってからみやげ話をすると、「夜行日帰りで青森まで行ったのか!?」 と、呆れられました。

この写真は七戸から十和田電鉄の十和田市駅へ向かうバスの中から写した、七戸車庫で出庫準備中の十和田バスのスナップです。なぜ写したかは分かりますよね(笑)
(1996/06/09)

2007年5月のTOP

昭和56(1981)年5月29日、着工以来6年半の歳月を費やして、地下鉄烏丸線の京都−北大路間が開業しました。
開業当日は、5時半の一番電車に乗るべく、明け方に家を出て北大路駅に向かいました。すでに試乗会で乗りごこちは体験済みですが、やはり一番電車に乗るのはドキドキするものです。

この写真は京都駅で折り返しの北大路行きを写したものです。開業記念列車も写していますが、あまりの人出で、列車の正面全体を写せなかったので、記念のヘッドマークのみお見せします。
 (1981.05.29 京都)


2007年4月のTOP

2004年6月6日、惜しまれながら、78年の歴史に幕を下ろした、あやめ池遊園地のミニSL「南十字星号」です。
直前の春休みにお名残に遊びに行きました。満開のサクラが遊覧鉄道を見送っていました。さすがに鉄道会社の直営だけあって、線路施設なども本格的で、途中にはトンネルや鉄橋もありました。

機関車はもう一台「北斗七星号」があり、こちらは黄色をベースにした塗装でした。廃園後は、どこかの幼稚園に引き取られたとの話を聞いたことがありますが、園児に囲まれて楽しい余生を過ごしていると良いのですが。
右の写真は、旧大軌デボ1型の保存車 (2004.04.04)

2007年3月のTOP

昭和60年3月、山手線・赤羽線の品川−赤羽間が旧日本鉄道品川線として開業してからめでたく100周年を迎えました。それを記念して登場したばかりの205系ステンレス電車を使った記念列車が走りました。
それまでの鋼鉄製の電車は錆止めと装飾を兼ねて路線カラーの鶯色をまとっていましたが、銀色に映える車体は、私には、まぶしく感じました。もちろんつめたいとか無機質だとかいう意見もありました。
205系は、座席格納車や6扉車など時代の先端をいく車両を真っ先に登場せさながらも、20年後の2005年春にE231系にバトンを渡して山手線から引退しました。
(昭和60/1985年3月 高田馬場駅西武線ホームより写す)

2007年2月のTOP
寒くなると各地でマラソン大会が開かれます。東京多摩地区で有名なのは、この青梅マラソンです。参加者は一万数千人にのぼり、沿線はお祭騒ぎです。当時の国鉄も応援電車を走らしたり、応援用の往復切符を発売したりしてサポートしました。
良く見ると、特製のサボをぶら下げた103系はまだ、非冷房です。選手そっちのけで電車を写しているファンもたくさんおりました。 (S61.02.16)

2007年1月のTOP
冬の斜光線を浴びて輝くオレンジの「きらら」です。昼下がりの電車は乗客もまばらで、ひとりふたりと下車客があるだけです。この付近は、友禅染の工場が多くて、糊の染料の混じった独特のにおいが車内まで漂ってきましたが、今はその多くがマンションに変わっています。
ところで、良く見ると「きらら」の側面は前後で変わっているのですね。前は車外を望める展望シート、後ろは一人がけのシートが進行方向右側に来ます。

茶山駅にて (2006.01.22)



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